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私の留学体験談留学体験談

アメリカ 語学留学 &
オーストラリア ワーキングホリデー


私は日本で4年制の大学を卒業しているものの、海外では約6ヶ月のアメリカ 語学留学と1年のオーストラリア ワーキングホリデーしか経験していません。したがってこれから留学されるみなさまにとっては"たいした経歴がない"と思われるかもしれません。しかしながら、留学センターを利用される方は、失礼ながらほとんどの方が"留学初心者"だと思います。そのため、みなさまと同じ目線で私どもの体験をふまえながら適切なアドバイスをできると自負しています。ここでは一例として私の留学体験からその後の就職活動をご紹介しています。よろしければお付き合い下さい。


1.| アメリカ 語学留学(Central Washington University)
1993年2月〜93年7月 在籍中の大学で手配
2.| オーストラリア ワーキングホリデーとその帰国後
パース 1998年5月〜99年5月 留学エージェントで手配
※ビザの申請方法等、現在とは異なっている項目がございます。


1. アメリカ 語学留学
92年
9月
親の了承を得て、大学が提携している Central Washington University への留学を申し込みました。初めての海外なので、英語力の向上というよりも異文化体験が目的でした。
 
 
92年
12月
TOEFL (PBT)を初めて受けました。結果は420点でした。リスニングでは何を言っているのかサッパリでした。と申しますか、いつ問題が始まったのかさえ、分かりませんでした。ただ、後半の読解問題は受験勉強から間もなかったのでこのスコアで落ち着いたかと思います。
 
 
93年
2月
よいよ出発です。手続きは学校に任せていたので、今思えアメリカ 留学 空港ばビザでさえどのように取得したのか覚えていません。空港でもよくわからないまま飛行機に乗り込みました。
シントン州のタコマ空港に到着です。無事に入国が認められ、学校のスタッフが迎えに来てくれて、約2時間後に現地に到着しました。
 
 
93年
2月
タッフが寮の部屋へ案内してくれました。"Thank you."とアメリカ 留学 校舎いうと、"No problem!"と返されました。「なるほど、"No problem!"と言うんだ」と思ったのを今でも覚えています。つまり、それくらい会話力がありませんでした。
屋にはいるはずのルームメイトがいませんでした。他の留学生はみな現地学生のルームメイトがいるのに私だけいなかったのです。廊下では叫んでいるアメリカ人がいるし、非常に心細くてシャワーを浴びに行くこともできず、みんなが寝静まった頃にシャワーを浴びに行きました…
日、スタッフにルームメイトを手配してくれるようにお願いすると、すんなり手配してくれました。「できるのなら、最初から手配しとけよ!」と思いました。
 
 
93年
2月
業初日。筆記と会話のクラス分けテストが行われました。
業2日目。テストの結果は4クラス中、最低のクラスになりました。会話力はないものの、受験生時代の英語の成績はそこそこよかったので、ショックでした。
だ、1週間後にクラスの再編成が行われ、下から2番目のクラスに移動できました。ちなみに一番下のクラスは名前しか言えない程度の英語力が対象なので、下から2番目といっても、他の語学学校では一番下のレベルだと思います。
 
 
93年
3月
アメリカ 留学 寮


タッフ同行で銀行口座の開設やマウンテンバイクを買い、ルームメイトもいい人でようやく生活に慣れてきました。
 
 
93年
3月

6月
れてきたとはいっても、一人で行動するのにはまだ不安があアメリカ 留学 キャンパスるため、もう一人の日本人留学生とともに行動しました。寮のアメリカ人がバスケットボールをしていればそれに参加したり、週に1回行われるピザやバーベキューパティーに参加することによって、多くのアメリカ人学生と友達になることができました。
談ですが、この寮には黒人ももちろんいます。目に付く差別は特にありませんでしたが、パーティーには一切参加しませんでした。
業も休むことなく出席していましたが、平凡な日々でした。
末にはレンタカーを借りてシアトルやカナダへの旅行、ルーアメリカ 留学 友人宅ムメイトの実家等に行くこともありました。
アトル旅行中に同僚のアメリカ人とケンカをして旅行を終えると、寮の他のアメリカ人から私が"トラブルメーカー"にされてました。第三者が見る限りあきらかにそのアメリカ人が悪いのですが、英語力がないため言い訳しても無駄でした。幸いにもたいした影響はなかったのですが、そのケンカ相手とは最後までわだかまりがありました。
 
 
93年
6月
学が夏休みに入るため、私のルームメイトも含めてほとアメリカ 留学 ルームメイトんどのアメリカ人が実家に帰ります。寮では盛大にパーティーが行われました。その後、学校内は"留学生村"と化し、私のルームメイトも日本人になりました。滞在は7月までですが、私の初めての留学はこれで終了した感じです。
学生にも10日間の夏休みが与えられたため、レンタカーを借りて留学生4人でサンフランシスコ、ロサンゼルス、サンディエゴ等、アメリカ縦断を決行しました。ついでに国境沿いのメキシコ・ティファナへも行きました。メキシコへの入国はフリーパスなのですが、アメリカへ戻る際には入国審査があり1時間程かかりました。たまたまパスポートを持っていたのでアメリカへ戻ることができましたが、何も考えずにメキシコへ入国したので、かなり無鉄砲でした。初心者って怖いですね。
中、約35kmオーバーのスピード違反で捕まりました。罰金は$120(当時のレートで約¥14,000)でした。
 
 
93年
7月
より1ヶ月遅れで来た3人組の日本人留学生と外で話をしていると、初老のアメリカ人女性が来ました。この3人とアメリカ人女性との会話を聞いていると、彼らは出会った頃よりも格段に英語力が上達していました。アメリカ人と常にいるわけではないのですが、3人で話す時も英語でやりとりしていたようです。来た時点で私よりも英語力があったのは事実ですが、たった5ヶ月でやり方によってはこんなに上達するものかと思い、ショックを受けました。
よいよ帰国です。空港にはルームメイトなど数人のアメリカ人が見送りに来てくれました。
述のショックはありましたが、異文化体験という意味では行ってよかったかなと思っています。
 
 
93年
10月
学で再度TOEFL (PBT)を受け、結果は460でした。TOEFLの勉強をしていないので、スコアについては何ともいえませんが、"海外旅行くらいは一人で行けるかな"と思いました。
検2級も取得しました。調子に乗って準1級も受けたのですが、筆記試験であえなく敗退しました。
国直後はアルバイト先に外国人が来ると積極的に話しかけていましたが、1年もするとそのような勇気はなくなっていました。
 
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2. オーストラリア ワーキングホリデーとその帰国後
98年
1月
めていた会社を辞めました。
 
 
98年
2月
就職をするつもりでしたが、もう1回海外に行きたいと思いオーストラリア ワーキングホリデー始めます。余談ですが、会社を辞めた理由はワーキングホリデーをするためではなく、純粋に会社を辞めたかったからです。
1年を予定していましたが、学校へ1年も通いたくはなかったので、学校に行かずに1年間滞在できる方法を友人に相談したところ、"ワーキングホリデー"を知りました。その時の目的は"とにかく生活してみる"といった漠然としたものでした。
メリカ留学の経験から隣国のカナダへ行きたかったのですが、カナダは締め切っていたため、オーストラリアに決定しました。
 
 
出発まで
験参考書で英文法を復習し、テレビや映画でリスニングを勉強しました。
 
 
98年
3月
ーキングホリデーに関する本を読んだところ、ある留学エージェントの情報が載っていたのでそこに相談しに行きました。
本人の少ない所をリクエストし、アデレードとパースを紹介して頂きましたが、スキューバダイビングをしたかったのでパースに決めました。
ランクがあったので、語学学校10週間と4週間のホームステイを申し込みました。学校の決め手としてはクラスが7レベルで比較的多かったことです。現地サポートを薦められたので、万が一のことを考え、5万円を支払ってサポートもお願いしました。
外旅行傷害保険もそこで申し込みましたが、航空券は自分で手配しました。
学エージェントという存在を知らなかったので、何も分からないままそこで申し込みました。手続代行料の存在も知らなかったので、料金の内訳も分かりません。何しろ会社が公共機関ぽい名称だったので、そのような団体があるのかと…ただ、そんなにボッタくられた印象はなかったです。そう思いたいです…
 
 
98年
4月
学エージェントにビザの申請書類をチェックしてもらいました。結果、無事にビザが発給されました。
校の入学許可書やホームステイ情報も届いたので、あとは個人的に出発準備をするだけです。
 
 
98年
5月
よいよ出発です。ちなみにこの留学エージェントでは出発前のオリエンテーションはなく、不明な点はこちらから電話をして聞きました。
 
 
98年
5月
[ 滞在 ]
ース到着です。無事に入国も許可され、学校のスタッフが出迎えてくれました。ホームステイ先では男性のDavidが出迎えてくれました。女性のJennyは不在で翌朝挨拶しました。
日分かったのですが、DavidとJennyは夫婦ではなく、Jennyがこの家の主人でDavidはシェアメイトでした。Jennyは離婚していて、たまに20歳前後の3人の子供が来ていました。Davidは独身でメルボルン出身です。数ヶ月後にはメルボルンへ帰る予定です。
日、Jennyの車で通学のために乗降するバス停を教わりました。数日後に分かったのですが、乗るバス停は"降車専用"でした。普段バスを利用しないので仕方ないといえば仕方なのですが、"過去に何人も学生を受入れているのにそれはないだろ!"と思いました。
着1週間後。生活には慣れてきましたが、Jennyはキレやすい性格のようです。例えば「"Rain"が降ってきた」と言われましたが、オーストラリアでは"ライン"と発音されます。「ライン?」と聞き返すと、「Falling water(落ちる水)よ!」と怒られました。Davidはいい人ですが、なにせこの家の主人はJennyです。Jennyが友人を連れてきても紹介してくれないため、私は部屋に閉じこもっているか、話し相手を求めてパブに行ってました。また、David、Jennyともに忙しいため、食事も一人ですることが多かったです。留学の本には"ホームステイ先で会話を学ぶ"って書いてるのに…お土産の扇子も「持ってる」と言われ、開封すらしてくれませんでした。
いうことで、ホームステイ担当者にホームステイの変更を依頼しました。が、「Jennyの家では今まで苦情をもらったことがない。」と言われました。確かに、食事はきちんと出るし、会話ができないのを除いて不満はありません。ただ、会話をするためにホームステイをしているのです。ここで判明したのが、ホストファミリーの義務は"寝床と食事の提供"ということです。もちろん学校によって考え方は違いますが、少なくともこの学校ではそうでした。
4週間で申し込みましたが、とにかく2週間で出たいことを伝えると、「Jennyがホームステイ代をすべて遣ってしまったため、返金できない。」と言われました。また、「男性はよく食べるし、部屋も散らかすので受入れてくれるホームステイ先が少ない。」とも言われました。

[ 勉強 ]
校初日。例のごとく筆記と会話のクラス分けテストが行われました。
オーストラリア ワーキングホリデー 語学学校業2日目。テストの結果は3クラス中、二番目のクラスになりました。ただ、"ちょっと待てよ7クラスあるのでは?"と思い、スタッフに聞いてみると、アジア経済危機の影響で東南アジアの留学生が激減し、1月から3クラスに縮小されたようです。"1月って…申し込んだのは3月なのにそれはないだろ!"と思いました。7レベルでいうと上から三番目のレベルに相当し、一つ下のレベルと同じクラスになるようです。

[ その他 ]
課後、現地サポート料の5万円を支払った人を対象にしたオリエンテーションに参加しました。内容は
1. アルバイトをするのにこのレストランは時給がいい。このレストランはオーナーの奥さんに盗み癖がある。(アルバイトについてはほとんど日本食レストランについてでした。)
2. 銀行口座を開くにはこの書類を持って行って下さい。
3. アパートを探すにはこの新聞がいい

といった内容でした。この時は有益な情報を得たし、今後もお世話になるかもしれないということで5万円支払ってよかったと思いました。(その後2回、些細な事で利用しました。)尚、当時はインターネットやメールはあまり普及していません。

 
 
98年
6月
[ 滞在 ]
方なくJenny宅で4週間を過ごした後、1週間はユースホステルに滞在しながら通学しました。実はバス停で知り合ったタイ人の紹介で新しいホームステイを見つけましたが、直前になって"引っ越す"と言われたために、住む場所がなくなったのです!Jennyの件もあり、しばらくはオーストラリア人を信用できませんでした。
た、現地の留学センターでホームステイの手配の相談をしましたが、手配料が$150(当時のレートで約¥13,500)かかるので断念しました。
ステルではイギリスからの旅行者と知り合いました。その後、学校ではなく、クラスメイトを通じて新しいホームステイ先に移りました。そこは20年前に中国から移民した老夫婦の家です。ファザーは英語を話せず、マザーは英語を話せるものの、ファザーの世話のために会話をする機会はあまりありませんでしたが、クラスメイトのマレーシア人がいたので、退屈はしませんでした。

[ 勉強 ]
校では下のレベルと同じクラスなので、かなり退屈でした。先生に対して「ここは幼稚園か?」と問い詰めたこともあります。キャンセルも考えましたが、返金はないということで、しかたなく10週間在籍することにしました。
なみに他の学校へ移った日本人学生もいます。後日たまたま街で会ったので、様子を聞いてみると、授業内容は同じでした。ただ、本人は転校したことに満足していました。

[ その他 ]
歴書の作成方法を学校で教わりました。
ろそろ学校終了後のプランを考え始めます。「英語を学ぶにはどうしたらいいのか?」。ある人は「ラウンド(オーストラリア周遊)しながら、様々な人と会って会話するのがいい。」と言ってくれました。ただ、それぞれの街で偶発的な仕事はあるかもしれないけど、全体的に費用がかかるのであきらめました。また、旅先で知り合っても深い仲になれずに別れてしまうことも理由の一つでした。
し相手を求めて週2〜3回、数件のパブに通っているオーストラリア ワーキングホリデー パブうちに、一つのグループが誘ってくれました。帰国まで毎週1回、このパブに通うようになります。
る現地留学エージェントで無料説明会があったので、それに参加しました。この時はこれといって得るものはなかったのですが、この留学エージェントでは無料テスト等も行われていたので、たまに参加していました。この留学エージェントは利用するだけ利用して、結局1円も払っていません…

 
 
98年
7月
[ 滞在 ]
ームステイは問題なく過ごしていたのですが、学校が終わったらフラットシェアをするつもりだったので、新聞等を見て探し始めました。何気なく学校のスタッフに聞いてみたところ、「よかったら代わりに電話してあげようか?」と言ってくれました。自分でやりたかったので丁重に断りましたが、現地サポートの不要性を感じた一幕でした。

[ 勉強 ]
校も折り返し地点です。クラス分けテストが行われ、7レベルでいうと上から二番目になりました。今度は一番上のレベルと同じクラスのため、逆にハードでした。文法等は問題ないのですが、読解が大変でした。具体的には「1分で400字のペースで読め」と言われました。もちろん、一字一句読んでいては間に合いません。受験英語をはるかに凌いでいました。今後の課題が見つかりました。

[ その他 ]
校終了後もずっとパースにいることを決意しました。"現地の人と同じように生活したい。"と思ったのがきっかけです。それでも抽象的な目的ですが…

 
 
98年
8月
[ 滞在 ]
ラットシェアがなかなか見つかりません。"・オーストラリア人との同居・1週間あたり$60以下(相場は$80)・交通の便が良い所"を条件に探していたのですが、難しかったです。
1ヶ月後ようやく見つかりました。家は相当古いものの、交通の便が良く、1週間あたり$50(当時のレートで約¥4,500)でした。同居人は40歳代の男性、Nicholasとその11歳の息子、Oscorです。Nicholasは離婚しています。昼間は専門学校(TAFE)に通っており、夜は週3回程、ナイトクラブで働いていました。6歳の娘は母方にいます。ただ、週に2回は息子ないし娘が双方を訪れていました。そして月に1回は家族4人で会っており、私もたまにパーティー等に招待されました。ようやくアパート探しの終了です。

pointフラットシェアはタイミングが合えば1週間で見つかる人もいます。1ヶ月は長かった方です。

[ 勉強 ]
校を卒業しました。この学校では8週間以上受講する学生は、2週間の休暇を取得することができたのですが、休まずに10週間通いました。もともと勉強が好きではないので、最後の2週間は力尽きていました。
の後も勉強はしなくてはなりません。なにせ当時25歳だったので無駄な時間はないのです。ほぼ毎日図書館に通い、図書館に置いてある"Japan Times"をコピーして読んでいました。"Japan Times"は日本のニュースが英語で書いてあるため、親しみやすかったからです。また、帰国後にTOEICを受けようと思い、日本の両親からReading 用の参考書を送ってもらいました。参考書は多数ありますが、とりあえず"目指せ600点"と銘打った本です。図書館での勉強は帰国までほぼ毎日行われます。
料英会話サークルの存在を元クラスメイトから聞きました。これは英語を母国語としない人をメインに週2回集うサークルです。オーストラリア人ももちろんいます。ここで知り合ったイタリア人の紹介でバスケットボールチームに入れてもらったり、香港人とアワビを採りに行ったりもしました。このサークルには帰国まで参加することになります。

[ その他 ]
校も終わってシェアも見つかり、今度はアルバイト探しです。日本人だらけの職場は避けたかったので、ジョブセンター(職安)を訪れたり、図書館等の掲示板をチェックしたりしましたが、なかなか見つかりません。ワーキングホリデーの本で紹介されているような"ツアーコンダクター"の仕事は、不景気のためか全くありませんでした。
の後、日本食レストランではあるものの、時給がよくて日本人がいない所があるという情報を元クラスメイトから入手しました。早速、そこに電話をして面接に臨みました。店長は日本人でしたが、日本人は確かに少ないようです。「空きが出たら連絡する」と言われたのでアルバイト探しはひとまず終了です。

point日本人の多い職場は回転が早いため、3〜4社面接すれば2〜3週間後にはそのうち一つからは空きが出て採用されています。

キューバダイビングのライセンスを取りたかったので、ダイビングショップの情報を例の5万円でオリエンテーションをしてくれた人に聞きに行きました。オリエンテーション以来のコンタクトです。ただ、ダイビングショップの情報くらい無料で教えてくれるでしょうし、到着して3ヶ月も経つので他で入手することもできるでしょう。アルバイト先の情報も元クラスメイトから入手しているし…
オーストラリア ワーキングホリデー 車を掲示板で見て約9万円で購入しました。1976年製のコロナマーク2(現マークX)です。10万kmの単位がメーターにないので走行距離は不明ですが、30万km以上は走っているでしょう。英語だと不安なので帰国予定の日本人から購入しました。が、1ヶ月後にその人を見かけました…騙された!?

 
 
98年
9月
[ 勉強 ]
TOEICの参考書をやってみると、問題は解けるのですが、時間がまったく足りません。やはり読むスピードが遅いようです。したがってTOEICの勉強はおいといて、"Japan Times"を読むことに専念しました。まずはスポーツや社会面等、比較的易しい記事から読みました。

[ その他 ]
ルバイト先からまだ連絡が来ません。かといって他はなかなかないし、探すのも面倒なのでとりあえず、待機していました。
キューバダイビングは月に4〜5回していました。ちなみにスキューバダイビングは日本人コースを申し込みました。不本意なのですが、命に関わることなので…

 
 
98年
10月
[ 勉強 ]
書館での勉強は相変わらず、"Japan Times"のスポーツや社会面を読んでいます。

[ その他 ]
ルバイト先からまだ連絡が来ません。そろそろあきらめムードが漂い始めます。残金が少なくなってきます。
校を終了し、人と会うことが少なくなってきたため、ホームシックにかかり始めました。人と会う機会といえば、たまにするスキューバダイビング、週2回の英会話クラブ、そして週1回のバスケットボールとパブくらいです。シェアメイトのNicholasともすれ違いが多いので、あまり会話をする機会がありません。この頃から、週1回、30分だけ日本にいる友達に電話をするようになりました。また、手紙も何回か書きました。年賀状でさえほとんど書かない筆無精の私が、手紙を書くということはかなり切羽詰まっていました。

 
 
98年
11月
[ 勉強 ]
"Japan Times"での勉強もスポーツ、社会面を卒業して、政治・経済面を読み始めました。政治・経済の記事では知っている単語よりも知らない単語が多く、読むことすらままなりません。知らない単語を片っ端から書いて覚える日々がしばらく続きます。中には十数回辞書を引いてやっと覚えた単語もありました。

[ その他 ]
うやくアルバイト先から採用の連絡が来ました。その時はスタッフ20名中、日本人は、店長、4〜5年住んでいる大学生、ワーキングホリデーの女性、そして私の4名だけです。あとはオーストラリア人やシンガポールなどのアジア人でした。
給は手取りで約$12。他の日本食レストランが約$7だったので時給も満足でした。
ーキングホリデーの女性は英語が全く話せず、名前だけ呼んであとはボディランゲージで他のスタッフとやり取りしていました。彼女とは約2ヶ月一緒に仕事をしたのですが、2ヶ月後にはかなり英語力が上達していました。

pointアルバイトではいい加減な会話はできないため、必死になります。英語力を上達させたい人はアルバイトを是非お薦めします。

ーストラリア到着から6ヶ月、アルバイトも決まり、ようやく私の理想型が完成しました。

 
 
98年
11月

99年
1月
[ 勉強 ]
書館で"Japan Times"の政治・経済面を読む日々が続きます。

[ 事件 ]
上駐車場に停めておいた私の車に人が入っていました。ロックはしていたのですが、古い車なので簡単に開けられたようです。中近東系の人で「タバコを探している」と言ってました。警察に連れて行こうとしましたが、相手も男なので思うようにはいきません。するとオーストラリア人の男性が現れて「被害がないならいいんじゃない?」と言ってきたので釈放しました。

point到着6ヶ月後の事件です。生活に慣れていたので何も考えずに車へ向かいましたが、到着1ヶ月後であれば、まず警察に通報していたと思います。事件は慣れた頃に巻き込まれます。常に海外にいる意識を忘れないで下さい。何もなかったからよかったものの、私も反省しました。

[ その他 ]
ルバイト、スキューバダイビング、英会話クラブ、バスケットボール、パブ、図書館での勉強を軸にした生活が続きます。アルバイト先では新たな友人ができ、プライベートもさらに充実しました。
育実習を兼ねて、ある語学学校が1ヶ月限定で無料授業を行うという噂を友人から聞きつけ、参加しました。抽選でしたが、運良く当選しました。クラス人数、日本人ともに多かったものの、無料だったので文句は言えません。
1回の日本への電話は続けていました。この頃には人と会う機会は増えたものの、日本語で表現する微妙なニュアンスを英語で表現できないストレスを感じるようになります。

 
 
99年
2月
[ 勉強 ]
書館で"Japan Times"の政治・経済面を読む日々が続きます。

[ その他 ]
3ヶ月のアルバイトが終了です。(当時のオーストラリアのワーキングホリデーでは一雇用主の下で働ける期間は3ヶ月までです。)アルバイトをしていた時間がポッカリ空くことになりますが、アルバイト先の友人とは帰国まで関係が続きます。
バコをきっかけにインド人と知り合います。(たまにはタバコも役立つもんですね!)翌日、ビリヤードに誘ってくれ、多オーストラリア ワーキングホリデー シェアメイトくの友人と知り合うことができました。その後も彼らとは週3〜4回程会っていました。単に遊んでいたといえばそれまでですが、私にとっては"遊び=勉強"でした。スキューバダイビング、英会話クラブ、バスケットボール、パブ通いも続きます。
1回の日本への電話も続きます…

 
 
99年
3月

4月
[ 勉強 ]
うやく辞書なしで新聞が読めるようになりました。ここまで半年間かかりました。TOEICの参考書を再度やってみると、確実に進歩していることを実感できました。

[ その他 ]
ライベートでは同様の生活が続きます。
が限界に達して売る事ができず、仕方なくレッカー業者に依頼しました。売れるに越したことはないのですが、「楽しんだし、いいかな」と自分に言い聞かせました。いくつか使える部品があったらしく、$50(当時のレートで約¥4,500)もらいました。ちなみに日本で整備士をしていた人がメンテナンスをして購入金額よりも高く売ろうとしていましたが、結局購入金額の半値近くで売りました。レッカー業者は例のオリエンテーションをしてくれた人に聞きました。もう1年近く住んでいるのでシェアメイトや他の知人に聞いてもよかったのですが…

pointオリエンテーション以降のサポートはダイビングショップとレッカー業者の連絡先を聞いただけです…

 
 
99年
5月
ろそろ帰国です。それぞれの友人と別れの挨拶をしまオーストラリア ワーキングホリデー シドニーした。バイト先で出会ったインドネシア人がシドニーにいるので、帰国前に1週間程シドニーに滞在して帰国しました。
回も目的は達成できたと思っています。英語力の向上も目的の一つに掲げていたので、日本人との交流を極力避けていたのですが、ホームシック防止のためにたまには日本人同士で遊んでいました。当時のワーキングホリデーは25歳まででしたので、私はギリギリでした。そのため、学生ビザの日本人を含め、最年長の部類に入るので幸いにも?日本人の友人が少なかったです。
だ、目的達成といっても資格を取得したわけではないので、帰国後の就職活動には不安がありました。この1年でパソコンの需要も急速に伸びましたし…
 
帰国後
99年
6月
速TOEICを受講しました。結果は710でした。Readingは参考書で勉強していたのでそこそこできたのですが、Listeningはイマイチでした。
 
 
99年
6月

7月
職活動開始です。渡航前は語学を活かした仕事に就くつもりはなかったのですが、中途半端に英語力が付いたため、チャレンジすることにしました。
刊就職情報誌を購入して活動していましたが、外資系や語学を活かせる仕事の特集は1ヶ月に1回しかないため、職安や紹介会社にも通いました。また、家でWordやExcelの勉強もしました。
要とされる英語力は英検2級以上やTOEIC600以上の会社が多かったので問題ありませんでしたが、即戦力の営業職での募集が多かったため、小売業が前職である私にとっては書類審査すらほとんど通りませんでした。小売業の募集が一つだけあり、最終面接まで行ったものの、副店長候補のため、キャリア2年の私はこれも不採用でした。
る会社の説明会では「"語学が活かせればどの仕事でもいい"という考えでは困ります。」とおっしゃっていました。そう言われても、やりたくない仕事はあっても、"特にこの仕事がやりたい!"というのもないのが正直な意見でした。
の会社では「英語力の基準はクリアしていても、求めている英語の質が違う」と個人的に言われました。英会話ができても、英語で営業の仕事をしていた経験はないので、ごもっともだと思いました。
 
 
99年
8月
国して2ヶ月以上が経ち、実家にいたので親の目がそろそろ気になり始めます。かといって妥協はできない質なので、もう少し粘ってみることにしました。
職活動をして2ヶ月、帰国3ヶ月後、留学カウンセラーの仕事を見つけました。"98年3月"の内容で申し上げた通り、留学エージェントの存在を知らなかったので、「こんな仕事があるんだな」と思いました。語学というより、留学経験を活かせること、そして立ち上げに関わることができたので、この会社を選びました。そして2004年1月に前経営者から業務を引き継いで独立し、現在に至っています。
足ですがこの仕事に就いてから、"多くの留学エージェントでは余計な費用を請求しているんだな"と思いました。
 
何の脈絡もなく綴ってしまいましたが、少しでもお役立て頂ければ幸いです。もちろん上記以外のことも数多く経験してきましたし、他の多くの日本人留学生も見てきました。[ よくある質問 ]もご覧頂いたうえで、さらにご質問がある場合は、お気軽に bridge@dream.big.or.jp までご連絡下さい。
 
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